
#19 覚馬の『管見』について
戊辰戦争の際、薩摩藩(二本松)邸に幽閉されていた盲目の山本覚馬は、当時17歳だった野澤雞一(会津出身)に『管見』を口述筆記させている。この『管見』は、明治維新以降の近代日本の指針として、明治政府の施策に活用されたといわ […]

#18 「カタルパ」伝来経路の謎
同志社関係者が「カタルパ」を語ると、どうしても新島と徳富蘇峰の師弟愛に収束されてしまう。特に蘇峰の開いた大江義塾跡地に「カタルパ」が植えられていることから、新島と蘇峰の絆の象徴とされることが多い。それが、 「カタルパの […]

#17 「カタルパ」神話の由来
栄光館の前に「カタルパ」が植えられていることはご存じだろう。何故そこに植えられているかというと、その木に新島と徳富蘇峰の師弟愛神話が託されているからである。この「カタルパ」神話を最初に指摘されたのは、同志社大学・末光力 […]

#16 「鵺(ぬえ)」と呼ばれた八重
八重の逸話の中で必ず紹介されるのが、「鵺(ぬえ)」というあだ名で呼ばれたことである。誰に付けられたかというと、どうやら徳富蘇峰だったらしい。当時まだ学生だった若き蘇峰は八重のことを、「今から考ふれば、如何にも子供らしき […]

#15 女学校の明治18年事件
みなさんは「明治18年事件」をご存じだろうか。これは同志社女子大学最大の危機ともいえるものである。それは女学校の主導権が宣教師にあるのか日本にあるのかという問題でもあった。ことの発端は日本ミッションの第13回大会(18 […]

#14 女学校における八重先生
八重は女紅場で4年間働いた経験があった。しかも新島と結婚したことで宣教師夫人という立場になったことで、1876年(明治9年)2月にドーン夫人と私塾を始めている。生徒はわずか三人(一人は男の子)で長続きしなかったが、八重 […]

#13 アメリカによる日本宣教
日本が幕末を迎え、安政五年(1858年)に日米修好通商条約が締結されると、諸外国のキリスト教宣教師が競い合うように来日している。彼らは外国人に開港された函館・横浜・新潟・神戸・長崎を拠点にして、積極的にキリスト教布教活 […]

#12 「新島」にまつわる名前の謎
新島襄が眠る若王子の墓地へ登ってみると、妙に立派な墓石が目に入る。最初の墓石が昭和61年(1986年)に壊されたので、新しく作り直したからである。その墓石には「新島襄之墓」と書かれている。これをよく見ると、「島」の横棒 […]

#11 「七五三太」は本名!
同志社では古くから「七五三太」は新島の「幼名」として語り継がれてきた。みなさんもそう思ってはいないだろうか。その気持ちもわからないではないが、「七五三太」幼名説を覆す資料がちゃんと存しているのだから、この機会に幼名説は […]
執筆者プロフィール
吉海直人(よしかいなおと)
同志社女子大学名誉教授。
1953年長崎県生まれ。國學院大學、同大学院を修了。博士(文学)。
専門は平安時代の文学、特に源氏物語や百人一首の研究をライフワークとしている。
同志社女子大学日本語日本文学科に35年勤務し、2024年3月に定年退職。
著書に『源氏物語入門〈桐壺巻〉を読む』(角川ソフィア文庫)、『百人一首の正体』(角川ソフィア文庫)、『定本新島八重伝』(武蔵野書院)などがある。
